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2016.06.26 (Sun)

市街地の賑わい

油津の街は、漁業が盛んで遠洋に出たり、水揚げの漁船が出入りしたり。
食糧の積み荷の為に『船食店』も多忙を極め、夜の街も賑わいだ。
盆暮れには、船主が数十万の手当てを支給するから、タクシーで宮崎での飲食に走る。

漁師の家族も贅沢三昧で、金遣いは荒く、思い切った買い物をする。
元々が派手な生活をしているから、子供への小遣いも荒い。
家財一切が、センスはともかくとして高価な贅沢品で埋め尽くされている。

日常の買い物を満たす為に、商店街には多くの店が軒先を並べる。
呉服店や洋服店は、流行の先端を行く品々が展示され、客足を誘う。
子供も多いから、玩具屋も駄菓子屋も、そして本屋や文具屋も。

『なんとか客の集まる銀天街で商売がしたい!』こう願うのが人情だろう。
が、空き店舗がない。
あっても、限られた家主が支配しているから、法外な家賃を求められる。

夜になると、銀天街の裏手にネオンが灯る。
小さな路地にも『赤ちょうちん』が下がり、マーケットと呼ばれる裏小路だ。
行き交う酔客の肩が触れ合うほどに人が溢れ、罵声と嬌声が飛び交う。

飫肥の街も、同様だった。
弁甲材が、石単価で山価格1万7千円、出材は馬か集材機。
分収部分林の持ち株が取引され、ブローカーが情報を持って集まる。

山林の入札がある。
製材業者やブローカーが集まり、応札前に談合で入れ札と選手を決める。
談合通りに落札業者が決まると『談合金』が支払われ、振る舞い酒にありつく。

建設業者は、談合もやるが博打が多い。
昼間から焼酎を酌み交わしながら、花札に興じるのである。
『炭鉱ズボン』と呼ばれた服装の社長も居て、通りで見かけると『博奕だなぁ!』と知れた。

大きな割烹が何軒もあって、毎夜の如く、賑わっていた。
そして、クラブも4軒ほどあったから、油津からでも酔客が集まった。
どちらかと云うと、油津よりも飫肥の夜が『高級感』があったと言うべきか!

農家は、麦と葉タバコを収穫して、水稲の田植えに移る。
田植えが終わって、山の下刈りや畑仕事に打ち込んで行く。
葉タバコの収納を終えて代金を手にするのが初夏で、米代金は初冬になる。

だから、商店街は『盆暮れ勘定』が当たり前になっている。
店頭に足を運べない農家の為に、店側が出向いて御用聞きをやる。
布団や家具、電気製品などである。

農村部を営業して廻ると、結婚間近の噂を耳にする。
瞬く間に、ミシン、電気製品、布団、タンスなどの『輿入れ商品』屋に情報が届く。
嫁を取っても、遣っても、費用は『一山』売れば用立つから、絶好の商いに違いない。

油津も飫肥も、近隣の住民が集まり、久しぶりの街を味わうのである。
勿論、北郷や南郷からの客足も途絶えない。
街に出てくる手段は、公共交通機関のバスか日南線の汽車。

日南高校、日南工業、農林高校と、県立高校生が利用する日南線。
飫肥駅で、上り下りが交差するのだが、吐き出される生徒の数は圧巻であった。
日南高校通学路の上り坂が、高校生の制服で埋め尽くされるのである。

そして、宮崎交通の運行バスからも降りてくる。
どこに、こんなに生徒が居るのか?と思ってしまう。
高校の先生も自転車通勤で、乗用車に乗っていたのは『能無しボンボン』くらいだ。

つまり当時までは、移動手段は公共交通機関しかなかったということだ。
交通手段=移動手段が限られている!ということは、娯楽や買い物も場所が限られているということ。
商店が集まっている市街地に、各地から人が集まる!ということである。

昭和40年代、油津の港百貨店が傾き、宮崎山形屋が進出して来た。
『スーパーやまいち』を、飫肥の山西さんが開店し、瞬く間に油津まで出店。
呉服屋を営んでいた『いろはや』が、大型店経営に乗り出したのも、この頃である。

この昭和40年代は、マイカーの普及も急激に進んでいた。
農村でも、夫婦で自動車教習所に通い、免許取得に励む。
耕耘機にリヤカーを引かせ、蜜柑を運んでいた農家に、1トン車のトラックが入る。

バスや汽車しか移動手段を知らなかった人々が、車で移動できる便利さを知った。
便利だから、油津の商店街に頻繁に出かけるが、駐車場に苦労する。
商店主も、売り荷の積み下ろしは銀天街に乗り込ませて済ませてたが、客には出来ない。

全国的なマイカー時代に目を付けた商売人は、郊外に駐車場付きの大型店を開業する。
最初は、思い切った郊外ではなくて、商店街に近い場所に店を構えた。
それでも手狭になったから、思い切って郊外に移したのである。

銀天街は、商店街の片隅に立った大型店に客を奪われたが、まだ客足は僅かに残っていた。
しかし、完全に郊外立地になると、銀天街の存在すらも忘れられた。
郊外店が、再び郊外立地を呼び、大型店にしか客足は伸びない。

住宅行政も、然りである。
3世代同居が当たり前だったのに、息子は『子供の教育を考えて!』と家を出る。
新築するには早いから、公営住宅に住まいを求める。

今までの公営住宅は、棟割長屋で駐車場も必要としなかった。
が、今ではマイカー駐車場や住まいスペースを広くとるから、建築場所がない。
住宅家賃は、建設投資から逆算されるので、地価の安価な郊外に建てた方がいい。

住まいが郊外なら、幼稚園も郊外に建つ。
郊外に人が集まるから、必然的に商店の郊外立地に拍車がかかる。
あれだけ賑わった商店街が廃れたのは、マイカー時代と暮らしの変化である。

日南に限ったことではない。
全国、津々浦々で見られる現象である。
古い時代も、宿場町が変わったり、城下に変化があれば、繁華街が変わってきた。

時代の変遷が、街並みを変える。
変わった街並みに、再び元の賑わいを取り戻そうという試みは、取り組む価値はある。
あるけれども、過大な期待は禁物である。
なぜなら、日常的に人が動かなければ効果はなく、オヒィスを立地しても人寄せにならない。

吾の住まいする集落は高台で、昔は倍以上の人家があったらしい。
が、大火があって、水がなくて全焼、降りて川べりに集落を移動させた。
戦国の世、武士の多くは山手に住んだ。

逆に、水田を耕作する農民は平地に住む。
山手は、戦の立地に合い、平地は農業に適している。
それぞれが、生活の利便性を重んじて、暮らす場所、営みの場所を決めて来た。

『歴史の流れ』に抗して、中心市街地活性化と言いながら、元の市街地の賑わいを求める。
気持ちは判るけれども、その成果を得るには、それなりの『誘導策』がなければならない。
青森市は、銀天街に公営住宅を立ち並ばせ、1階を店舗、2階を貸事務所、それ以上を住居に。

住居に子供が住むから、1階の駄菓子屋の売り上げがある。
しかし、新興住宅地のように、やがては子供が巣立ち、高齢者の町になる。
その時、駄菓子屋の売り上げはどうなっているのだろうか?

などと考えながら、日南市の中心市街地活性化政策、なるものを眺めている。
税金で手立てを施し、行政の後押しで商売の手助けをしてあげる。
その、麗しい後押しが続く限りは『活性化』があるかもしれない。

決して、税を投じたものが、特定の人の『暮らし』を助けるものであってはならない。
人の流れ、人の移ろいには、大きな要因がある。
その要因を退け、世界に先駆けた『元の活性化策』が実現するか?

その『政策効果』に重大な関心を持っている。
吾だけ? 
イヤ、全市民が!
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